登校拒否・不登校を考える親の会「ポコ・ア・ポコ」
代表 井出 里美
不登校の親の会主催 進路学習会(2020/10/4)体験者の話より
今、西多摩地域には不登校の子をもつ親たちの会が4つあります。そして11年前から、親の会主催の進路学習会を毎年行っています。
小5で息子が不登校になったとき、この子の将来はどうなるのだろう?高校へは行かれるのか?と、とても不安でした。
そんな中、息子が中1のときに、登校拒否・不登校を考える東京の会主催の進路学習会に初めて参加しました。あのとき、「だれにでも、いつからでも、何度でも、進路は開かれています」と言った講師の先生のことばで、「何とかなる」とほっとできました。そして西多摩でも、進路に不安を抱える人たちとこの安心を共有したい、との思いで進路学習会を始め、毎年講師の先生や体験者のお話しから、たくさんのことを学び合っています。
昨年は体験者の話として、息子が自分の体験を話しました。
今回はこの場をお借りして、そのときの話を私が文章にしたものをご紹介します。
子どもを、信じて・任せて・待ってほしい
これからお話させていただくのは、あくまでぼくの体験です。子どもの数だけことばがあり、体験があります。ぼくの体験は参考程度ですが、それでも生の声をお伝えすることで何かに活かしていただけたら幸いです。
ぼくは小学校5年生から中3まで登校拒否をしていました。いわゆる文科省の定義の「年間30日以上の欠席」の「不登校」には当てはまらない時期もあったので、自分は「登校拒否」だった、と考えています。
登校拒否になった理由は今でもよく分かりません。小5のときのクラスが荒れていたり、当時は両親も厳しかったりしましたが、はっきりした何かがあったわけではなく、ある日突然お腹が痛くなり、学校に行かれなくなりました。心配した母はぼくを幾つかの病院に連れて行きましたがそこでも原因は分かりませんでした。あの頃は、周りの「大変なことになった」という空気感や「この子は病気かおかしくなってしまった」と思われていること、そして、「なぜ学校に行かれないか?」と聞かれることがつらかったです。
行かなくてはいけない所に行かれない自分はおかしい。
それまで親の言う通りにしていたいい子だったのにそれができなくなってしまった。
・・・と、ずっと自分を責めていました。ぼくは、「子どもは24時間労働」だと思います。学校では先生、家では親の監視の下で、常に大人の求めに応えなければならない過酷さの中にいる気がします。
学校に行かれなくなった当初は何もすることがないとずっと自分を責めてしまうので、それを紛らわすためにゲームをしていました。今みんなは何をしているんだろう?みんなは学校で勉強しているのに。どんどん置いて行かれてしまう・・・。と、そんなことばかり考えてしまう時間をゲームで潰していたので、楽しくてやっていたわけではありませんでした。
また、親の寝ている時間だけが自分のダメさを忘れさせてくれる時間だったので、夜型にもなりました。
そうしているうちに夏休みになり、両親は「これを区切りに夏休み明けは学校に行けるのでは」と期待していました。しかし何かいいことがあったわけでもなく、ぼくの中では何の変化もなかったので、夏休みが終わったからといって学校に行かれるようにはなりませんでした。
そこでがっかりする両親を見て、親の期待を裏切ってしまった自分を更に責めました。夏休みだけでなく、新学期などの「節目・区切り」は、子どもの気持ちに関係のなく、一般的な流れで勝手にやってくる「区切り」です。
ぼくのように自分の気持ちは何ら変化していないのに、「行けるようになる」と期待すると、かえって子どもを追い詰めてしまうことになると思います。
5年生の終わりごろ、家の近くにある動物園の園長さんが、ぼくをボランティアに誘ってくれました。ちょうどその頃、学校には行かれませんでしたが、母と動物園やペットショップによく行っていました。
両親と居ると、自分がいかにダメかを思い知らされるようでつらくなりましたが、生き物は「自分を責めない存在。人間のしがらみに捕らわれずにいきているように見えた」ので、その頃のぼくの支えでした。
そんな動物たちに会える動物園のボランティアは楽しい時間で、小学校卒業まで続けました。
その他、週に1日数時間、学校で担任の先生と2人で勉強をし、市の教育相談室にも週に1回行っていました。修学旅行にも行くか行かないかの葛藤の末、一部だけ母と参加しましたが、これらは「行きたい」というより、「行かれたら親や先生を安心させられる。期待に応えたい」という気持ちで行っていました。
そんな風に過ごしながら、卒業式では舞台で「獣医になりたい」と言って、ぼくは小学校を卒業しました。
母はぼくが登校拒否になってしばらくしてから、「親の会」に通っていました。それまで「今日は学校に行かれる?明日は?」とぼくに何かをやらせようとしていた母が、自分の気持ちを否定されずに聴いてもらえる親の会に行くようになり、「どうしたい?」と聞いてくれるようになったので、ぼくは中学では「別室登校をしたい」と自分の希望を伝えることができ、毎日別室で自習をしました。あのときは、「自分に自信を取り戻したい」、「親を安心させたい」と思って別室登校を希望しましたが、自分で決めたことだったので、苦ではありませんでした。母が自分を尊重してくれるようになったことで、「クラスには行きたくない」という自分の意思も伝えられ、それを認めてくれたことで自分への自信も取り戻していきました。
中2になるとそれまでぼく一人だった別室に数人が通うようになり、中3の先輩と仲良くなりました。車が大好きな先輩の話を聞くのが楽しくて、クラスには行けませんでしたが、別室で人間関係を作ることができました。
勉強は、母に頼んで家庭教師を探してもらい、その先生に分からないところは教えてもらいました。
中3の進路選択の時期には、自分の決断を母が尊重してくれるという安心感と、自分への自信も少しずつ取り戻してきていたので、高校受験にチャレンジしてみたい、そして高校は「自分で決めたい」と思いました。
ある高校の説明会に行ったとき、先生が金髪の子を指さして「きみはそのままではこの高校には来られない」と言いました。ぼくはそのとき、「理由も聞かずにルールだからといってダメだと決めつける」ことは嫌だな、と思いました。その子の考えや生き方も聞かずに「ダメ」だと決めつけてしまう高校へは行きたくない、と、自分で行ってみたから「嫌な所、いい所」を感じ取ることができ、そうやって志望校を決めました。
「人生80年と長いのだから、たった1.2年のブランクがあっても取り戻せないことはない」「人に決めてもらったら、ずっと人のせいにしてしまう。そういう人生は歩みたくない」「たとえ失敗しても母は責めたり、失望しない」と考えられたので、不安やプレッシャーがあってもチャレンジすることができました。
子どもは、自分の考えや意見を尊重してもらい、自分を信じてもらえると、それが力になってつらいことや不安なことに立ち向かえると思います。登校拒否をしたことで、「自分らしく生きたい」と、自分の人生について本気で考えることができました。だからぼくは登校拒否をして良かったです。
親のみなさんはどうか自分を責めないでください。ぼくは両親を恨んでいません。両親にぼくのことが分からなかったように、両親にもぼくの知らないことがあったんだと思います。特に父は、ぼくの知らない厳しい社会で生きていたからこそ、そういう中で苦労してほしくない、との心配が厳しい対応になっていた・・・と今は分かるようになりました。
感情的になるのも、悩むのも、厳しくするのも愛情があるからだと、いつか子ども自身が気づく日がくると思うので、自分を責めずに、お子さんを「信じて・任せて・待って」あげてほしいです。
執筆:井出里美
羽村市在住 50歳
フリースペースロビンソンとの出会いから、羽村市に登校拒否・不登校を考える親の会「ポコ・ア・ポコ」を立ち上げる。西多摩地域にある親の会と連携しながら、毎年講演会や学習会も行う。わが子の不登校と親の会で学んだこと―「その子のありのままを尊重するまなざし」を大切にする居場所として、フリースペースロビンソンのスタッフとして関わっている。
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