青梅宿とは..
青梅宿とは、現在の旧青梅街道の道沿いに、江戸時代に発展した宿場町。
室町時代から「市」が立っていたというほど、青梅は古くから人々が集まる地でした。
青梅・奥多摩は木材の産地「杣保(そまのほ)」と呼ばれ、石灰の一大産地でもあり、江戸城の建築資材として大きな需要がありました。
徳川家康が江戸幕府を開いたときに青梅陣屋が置かれ(現在の森下町熊野神社付近)、青梅街道には旅人や御岳山への参拝者、商人や職人が絶えず行き交い賑わっていたようです。
また古くから織物生産も盛んで、江戸時代からは木綿と絹を織り合わせた青梅縞(じま)の生産地として知られてきました。
INDEX
現在の青梅駅前の町の区切りは、江戸時代の市の名残が残っています。
市の公平性を保つため、上町/仲町/下町(現本町)の青梅街道に面した長さは皆同じでした。
市は近隣界隈だけでなく各地の商人が売りにきて大変賑わったそうです。
青梅街道に面する家々は、隣同士隙間無く細長く建てられていて、京都の町家と同じくうなぎの寝床と言われる長屋式。裏へ行くには家の中を通るしかないほどです。
その名残は、仲町の青龍kibakoで昔ながらの家屋の様子をみてとれます。
町の区切りである【横丁】が唯一の通り道でした。どろぼうは横丁を通るしかなく、横丁には必ず見張り番の様に床屋が陣取っていたそうです(いまでも本町の端に橋伝(ハシデン)という床屋があります)
雪守横丁も本町と新町(現住江町)の境目で、ぼうじいしはその名残を残しているのです。
御嶽菅笠(みたけすげがさ)とは、江戸時代に大流行した御嶽詣(現在の御岳山・武蔵御嶽神社)への道中記。今でいう旅行ガイドブックのようなものです。
天保五年(1834)、国学者・齋藤義彦により製作されました。
江戸時代、御岳講と呼ばれる御嶽信仰が関東一円に拡がっていました。
日本橋から新宿・中野・荻窪・柳澤・青梅橋(東大和市)・箱根ヶ崎宿・青梅など、青梅街道を通り御嶽神社までの道のりが載っていて、当時の青梅宿の様子がよく描かれています。
青梅の名前の由来になった金剛寺の梅の解説などの観光案内もありますが、当時の旅はすべて徒歩で旅程も長くなるため、各宿場ごとの宿屋やお医者さんの案内も多いです。
この版木は、今も御岳山で代々御師(武蔵御嶽神社の神職)を継ぐ靭矢家に所蔵されています。
当時の青梅街道の様子などを知る貴重な資料として、昭和39年(1964年)に市の有形文化財に指定されました。
御嶽菅笠の復刻版は、今も武蔵御嶽神社で購入することができます(1冊500円)。
住吉神社参道横にある「阿於芽猫祖神(あおめびょうそじん)」は、右手で金運を招き、左手にはマタタビの葉を持っています。「阿於芽(あおめ)」には「青梅」と「青目」がかけられています。
商店街の店主たちが商店街の復活を願って、商売繁盛の招き猫に福を招いてもらおうと話し合ったのがきっかけで、1998年に奉納されました。
古くから織物産業で栄えた青梅は、養蚕業も盛んで、かいこを狙うネズミの駆除に猫が珍重されたといいます。
その後、商店街に昭和レトロ商品博物館が設立、映画看板絵師などを輩出、いつしか昭和のまち青梅として知られるようになりました。
実は参道の奥にも2体の猫神様が祀られています。「大黒天猫」と「恵比須猫」、こちらも阿於芽猫祖神と同時期に奉納されました。
江戸時代の中頃、青梅の森下(青梅駅前の西エリア・現森下町)に住んでいたという医者【足立休哲】は、人気ドラマ「JIN-仁-」の南方先生のモデルともいわれています。
ペニシリンを発見したフレミングよりなんと200年も前に、 青カビの抗菌作用を知っていた逸話が残っているのだとか。
治療代は貧乏人からは一文もとらず、 金持ち商人には高額な医療費を請求し、貧しい人びとに分け与えたといいます。
特に耳の病気を治すことで有名でした。
当時としては驚異的な96歳の長寿をまっとうしました。
村人たちの手によって没後神格化され、現在は 森下の北側、 青梅線を越えた山すそに 「休哲様」 という小祠(こぼこら)があり、眼と耳の御利益のある神様として親しまれています。
「江戸の粋」だった青梅縞(おうめじま)。
経(たて)糸に絹、緯(よこ)糸に木綿を使用する絹綿交織。
正座をしても膝が出にくいしなやかさが特徴の織物。
江戸時代の多くの書物や浮世絵、当時の暮らしを伝える資料に登場しています。
江戸のみならず京・大阪など全国の庶民の生活に根付き、近代の有名時代小説の登場人物の着こなし描写にも登場。
青梅縞が「江戸の粋」、江戸庶民の憧れの存在として描かれています。
青梅縞の人気は明治初期まで続きましたが、その後価格の手ごろな使い勝手のよい布団生地「青梅夜具地」へとシフトチェンジしています。
およそ今から100年前に執筆され、幾度となく映画化・ドラマ化されている未完の長編時代小説。著者は羽村市出身の中里介山、30年以上かけ全41巻にのぼります。
舞台は幕末、"音無しの構え"で知られる剣豪の主人公・竜之介は、武州沢井村(現在のJR青梅線沢井駅一帯)が出身です。冒頭に武蔵御嶽神社で行われた奉納試合も描かれています。
実在の登場人物・裏宿七兵衛
大菩薩峠に登場する「裏宿七兵衛」は、青梅・裏宿町に実在したという伝説の義賊。
裏宿七兵衛は昼間は農民として畑仕事をし、夜になると十里(40km)をひとっ走りし、悪徳商人の家から盗んだ金品を地元の貧民に恵んでいたという青梅のねずみ小僧でした。
まれにみる俊足で、首に巻いた10mの布が地面にふれることがないほどの健脚だったと伝わっています。
最後には捕まって打ち首になってしまいましたが、その首が宗建寺の横にある小川に流れつき、住職が手厚く供養しました。宗建寺には今も七兵衛のお墓があります。
お参りすると足が速くなる・足腰が強くなると、宗建寺にはランナーやアスリートが祈願に訪れます。
七兵衛の処刑後、七兵衛の屋敷や田畑は人手にわたりましたが、不吉な事ばかり起こります。明治になっても所有者に不幸が続いたため、大正になって一部の土地が役所に寄付される事になりました。
しかし役所を建設中にも怪我人が続出。役所の有志が七兵衛を供養し、地蔵尊を奉祀したところ、ようやく不吉な事はおこらず、七兵衛地蔵尊は町内の守護神として崇敬されてきました。(現在青梅市民センターのすぐ横にあります)
七兵衛の屋敷は、いまは七兵衛公園となっていて、旧青梅街道から一本奥に入った細道が"七兵衛通り"として、仲町から裏宿町にかけて残っています。
青梅市出身の映画看板士。
かつて花街として栄えた昭和の青梅には3つの映画館があり、その映画産業を支えていたのが久保板観(くぼばんかん)さんです。
「板観」の呼び名は「看板」の2文字を入れ替えたもので、日本画家「横山大観」から1文字を借りたのだとか。
青梅の映画館で上映される作品を紹介する看板を、1973年の閉館まで描き続け、年間数百枚の作品を手がけたといいます。
1994年、地元商店街活性化のために再び映画看板を描き始めると、遠くから昭和時代を懐かしむ中高年から若者まで、映画看板を一目みたいという人が訪れるようになりました。
青梅駅舎内をはじめ青梅駅前のあちこちが板観さんの映画看板で昭和レトロに彩られていましたが、2018年に亡くなられたあと台風の影響で看板に被害もあり、安全確保のためにやむなく撤去されていきました。
かつての賑わいを残そうと映画看板を描き続けてきた板観さん。
彼の映画看板を再び未来へつないでいこうと、地元商店街の有志たちの募金活動とDIYで誕生させたのが、ここ板塀ギャラリーなのです。
板塀ギャラリー制作の中心者となったのは、すぐ隣にあるCafeころんオーナーちゃんちき堂のてつさんです。
せっかくなので、ランチやお茶でゆっくりしていってくださいね。